尾藤敏彦        - 故郷という新天地の獲得がもたらした人間の心の襞 -
 尾藤敏彦は一昨年春、長らく制作拠点とした埼玉県所沢市久米の地を離れ、故郷、岐阜県郡上市大和町島の在所へ帰郷した。これにより作品の着想、形成、焼成、仕上げまで、全行程をここでこなせるようになった。
 この個展は尾藤の、「郡上八幡出てゆくときは雨も降らぬに袖しぼる」の文句の郡上おどりや郡上一揆で知られる長良川流域、八幡城を有する郡上発信の作品お目見えの場である。
 北は霊峰白山山頂まで擁する郡上市である。両白山地、飛騨高地の山々が行く手を阻み、長良川鉄道越美南線を終点北濃駅よりさらに伸ばして福井県側、越美北線と結ぶ計画はついに実らなかった。だが欲望は歴史を拓く。山を越え、道は葉脈のように延び、湖底に村里を埋蔵する御母衣ダム、荘川、白川郷、五箇山、三井神岡鉱山、小京都飛騨高山、日本海へと古代から通っている。白山信仰のお膝元、円空ゆかりの地、連歌の大成者飯尾宗祇ゆかりの地、長良川を下れば関の刀鍛冶の歴史もある。地霊ともども、なにをとっても尾藤の直取り蠟型原型による錫の造形と無関係なものはない。
 少年時代、山林の買い付けや伐採を請け負う山師の父について奥美濃の山々を歩いている。この体験が、のちに武蔵野美大で民俗学者の宮本常一に出会い、著書『忘れられた日本人 』中の一篇「土佐源氏」に共鳴する要因となる。牛を引いて四国山地の秘境の家々を回った被差別民の博労の、禁断の性愛遍歴回想聞き書き物語、その土俗臭に充ちたおおらかな官能に真実を見たという。 
 あらゆる事象がかしこまってとどまりなく分散交錯するかに映り、既製品と化した価値観が意味ありげに千変万化するなかでは、一個の人間の秘められた心の情感などひとたまりもなく押し流されてしまいそうである。生まれ、生き、間違いなく一人で死ぬという生の三拍子の実感が希薄になりつつあることに多少なりとも危惧を抱くならば、尾藤敏彦の生む精緻であらわな女の鎧の、無惨、哀れ、生々しい外皮に覆われたその空虚な手つかずの内側のざらつきにこそ、曇りを払う答えの糸口があるように思われる。ぜひのぞきこむべきである。
常盤茂(あらゆる美なるものの探索者)
"Yuu-Yuu"  The making of Toshihiko Bito's work
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